歴史的な初優勝に貢献。Tokuraの世界一を影で支えた男とは

今や日本最大のサークルとして活動している「Pelusa」を立ち上げるなど、シーンの発展に貢献してきたBrian。

大学からフリースタイルフットボールを始めた彼は、未知なる世界でどのように道を開いていったのか。そして、あの“世界一”に輝いたフリースタイラーとの知られざるエピソードに迫った。

Pelusa、日本一蹴、そして海外へ

高校までサッカーを続けていたBrainは、明治大学へ進学後にフリースタイルフットボールと出会う。

「とりあえずサッカーかフットサルのサークルに入ろうと思っていたんですけど、ただ飲んで、ボールを蹴るだけで終わりそうな気がして。それだけだと、自分のサッカー人生が何も残らずに終わってしまうので、もっと面白いことをやりたいと思っていました」

その思いの背景には「高校であまり部活に打ち込めなかった」という後悔もあったという。そうして新しい道を模索している最中に、フリースタイルフットボールにたどり着いた。

 

初めて出会ったフリースタイラーは、StylersのNissiだった。Nissyはフリースタイルフットボールの黎明期からトッププレーヤーとして活躍し、当時のフリースタイラーのバイブルでもあった“ナイキ本”にも出演していた。現在もStylersのメンバーとして全国各地でパフォーマンスを行っている。

「たまたま東京に行った時に、動画で見たことのある公園を見つけて、そこにNissiさんがいたんです。少し一緒に練習させてもらったら『リフティングの基礎ができているから、すぐ上手くなるよ』と言ってもらえました」

最初は「声をかけるか悩んだ」というBrianだが、その出会いをきっかけにフリースタイラーの輪を着々と広げていった。そして横田陽介やTokura(徳田耕太郎)など、トッププレーヤーともネットを介してコンタクトを図っていたが、その中で感じたことがあった。

「いろいろなフリースタイラーとも交流していたし、それはそれで楽しかったんですけど、やっぱりレベルの差もあるじゃないですか。どうせなら大学の活動としてやりつつ、ビギナーが入りやすい場所を作りたかったので、サークルを設立しようと思いました」

こうして設立されたのが、今や日本最大のサークルとして広く知られているPelusa(ペルーサ)である。

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大学1年の春休みには”日本一蹴”と題して、札幌、福岡、山口の3カ所に足を運び、地方のフリースタイラーとも交流を深めた。

 

プレーヤーとしての歴は浅いものの、レベルの高低を問わず様々なフリースタイラーと出会い、人脈を広げていったBrian。その中でもTokuraとは同学年で、同じタイミングで上京してきたこともあり、意気投合していた。

大学2年の夏には、TokuraがWorld Freestyle Football Championships(WFFC)というマレーシアの大会に招待されると、Brianも観客として帯同することになった。これがBrianにとっては初の海外への渡航だった。

Tokuraが世界一に輝いた裏側

翌年の2012年には、TokuraはRed Bull Street Style(RBSS)の日本予選を制し、イタリア・レッチェで行われる本戦への切符を手にした。その大舞台に、Brianもマレーシア遠征の延長線上で、再び帯同することとなる。

「『来る?』みたいな感じでも言われたし、僕自身も行こうと思っていたので。どうせイタリアに行くなら、ついでにいろいろな国を周りたかったので、大会前にウロウロしようかなと。それで最後にイタリアのレッチェに行って、大会を見て帰るという流れでした」

イタリアでのWorld Finalで、TokuraはKamalio(南アフリカ)、Boyka(コロンビア)、Mikolaj(ポーランド)などの強豪を破る快進撃を見せ、アジア人初となる世界一に輝いた。

「正直、予想はしていなかった」と語るBrianだが、イタリアに到着した現地での練習風景を見た際に、優勝する雰囲気は感じていたという。

「当時はシッティングのスタイリッシュなフローも少なかったし、今みたいなスキル重視というよりも、スタイルが熱かった時代なので、そういう意味でもTokuraに注目が集まっていました。大会が始まっても、TokuraとBoykaへの歓声がすごかったです」

TokuraとBoykaが注目される要因には、バク宙クラッチ(トクラクラッチ)という分かりやすい武器を持っていたことも大きかっただろう。

 

Tokuraは準決勝でMikolaj、決勝ではDaniel(アイルランド)と対戦した。今でこそ変則系エアームーバーとして脚光を浴びているMikolajだが、当時は現在ほどスタイルが確立されていなかったため、そこまで難敵ではなかった。

それ以上に、自身のスタイルを確立しているKamalioと、バク宙クラッチに対抗できるBoykaのほうが手強さはあった。

「ベスト4と決勝は勝てると思っていました。ただ、ベスト16がKamalioで、ベスト8がBoykaだったので、そこが肝でしたね。Tokuraとも『ベスト16に勝てば勢いでいける』という話をしていて、ここで勝って優勝するか、負けて帰るかという感じでした」

結果的にはKamalio、Boykaをともに4-1で下し、ベスト4ではMikolajに5-0の完勝を収めた。

「Kamalioは予選で出し切っていなかったし、Tokuraに負けると思っていたらしいので、全然緊張していなかったんですよ(笑)それもTokuraにとってはプレッシャーで、リラックスされてかまされたらきついなと。正直、最後のターンまで分からなかったですね」

 

今大会にはジャッジの横田陽介、そしてRed Bullの日本人スタッフも参加していたが、純粋な観客として見に来ていた日本人はただ一人だった。だからこそ、込み上げてくるものも大きかったという。

そして、この歴史的な優勝の裏側には、ある“事件”もあった。

「実は決勝トーナメントの途中に、Tokuraの技やルーティーンをまとめたノートが盗まれたんですよ。その時はかなり焦りましたけど、ここまで来たらアドリブでなんとかなるっしょ、という話をしていました」

もし仮にTokuraがたった1人の状態でノートを失っていたら、焦りがバトルに影響を与えていたかもしれない。

その一件の後に、Tokuraは「本当にありがとう。Brianがいなかったらここまで来られなかった」とBrianに感謝を伝えたという。

シーンとの新たな関わり方

帰国後、Tokuraは多数のメディアに出演し、一躍“時の人”となった。アジア人初、それも史上最年少での世界一に輝いたことで、日本中から注目を集めた。

その背景には少なからずBrianの貢献があった。彼はTokuraの優勝を影で支えた“パートナー”でもあったが、それと同時にTokuraを最もリスペクトしている存在でもある。

「好きなフリースタイラーはたくさんいますけど、一人挙げるならTokuraです。僕と同じ細身で、そこまで上背がない体型なんですよ。それなのにスキルは世界レベルで、アクロバットもできるので、憧れではありました。自分がもし誰かになれるのであれば、Tokuraになりたいですね」

 

Brianは現在、フリースタイルフットボールに深く携わってはいないものの、シーンの外側から何かしらの形で携わる意思を持っている。

「ボールを蹴らなくなることもないし、関係を切ることもないと思いますね。第一線の人が行き届かないところを自分がやりたいとは考えています。例えば、個人スポンサーとして目に見える形で支援をするとか。

ただ、それを実現するためにはフリースタイルフットボールで何かを頑張るというよりも、僕個人がビジネス面で成長するべきだと思っていて。その上で、何かシーンにとってプラスになるような環境を作れたらベストです」

フリースタイルを始めた当初から、行動力で道を開いてきたBrianは、今も新しい道を模索し続けている。

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投稿者プロフィール

Hiromu Tanaka
Hiromu Tanaka
中学生からフリースタイルフットボールを始め、大会やパフォーマンスなどに積極的に参加。現在はフリーランスで、スポーツを中心に様々なWebコンテンツを配信。JF3の運営をはじめ、フリースタイルフットボール界を盛り上げるべく、多岐に渡る活動を行っている。

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